7/3
いつも通りの朝を過ごすが昼間の職場に向かう必要はない平日の今日。ドトールのホットコーヒー230円をすすりながら暑くなる予感の朝日のなかサンダルをズルズルいわせながら浜松町の京浜東北線やら東海道新幹線のガードをくぐりながら家に戻る。部屋に戻ってから昨晩の酩酊でピアスの留め金を無くしたことに気づく。地下階の自転車置場、酔っぱらって自転車に乗って帰って来たのだ、を探すも結局見つからずに留め金なしのピアスをポケットに入れて昼前に有楽町ビックカメラへとオレンジ色のモンベル40リッターを背負いつつ向かう。
フィルム。感度400フジカラーネガ、20本徳用パックと予備電池6,000円強。今回の撮影はGR-1ひとつと決めている。前回沖縄に行った時はF3のモードラ付も首から下げて50ミリと28ミリと使い分けようとしたのだが、岩場を歩くのに身軽さに勝るものはないとの経験から機材は軽くする事に専念した。
12時半には待ち合わせの溜池山王に着く。赤坂近辺にて柵の横に立つ警官達の作業を目の当たりにして初めて彼らの役割を理解する。いままで道端でよく見ていたのだけど、何をしているのかさっぱり分からなかった。右にも左にも。日本ってやはり優しい国だね。集合前に昼食をとる。「さくら水産」にてまぐろ中落ち定食600円。食べられる時に食べておかねばどんぶり飯3杯、生卵2個。午後1時にキャピトル東急のロビーにてその場所に違和感のある人物となる。モンベル背負ったバックパッカーはこんな所に現れないよな。ちょうど「ビートルズ祭り」の様なものをやっていて、ビートルズ博物館やらの館長らしき人が案内をしている展示室があった。「あの、ビートルズシネクラブはまだあるんでしょうかね?」と聞くとなぜか曖昧な返事が返って来る。なんか派閥とかありそうだ、ファンクラブの中で。バンドが来日した当時の記念品なんかをガラスケースの中に入れて見せている。こんなものから何かインスパイアを受けるのか、それとも懐古主義に走るのか。ともかくそこに居た見学者たちはみんなニコニコしていたからあまり深く考えなくても良いのだろうと思った。今年中に完全に解体されるこのホテル。ビートルズが来日した時に泊まった事で伝説になっているスイートルームがある。宴会場と呼ぶには気恥ずかしい「真珠の間」に歴史を感じる。何が真珠かって、シャンデリアがつぶつぶのわさっとした塊なのだ。話を聞くと手入れがかなり大変らしい。ロビーに戻って芸能人やら金持ちなどの、一般 人から見ると胡散臭いゲストをひとしきり眺めた後、狭い車寄せからエアポートリムジンに乗る。3,000円。車で成田に向かうのは初めて。
成田では沖縄からの合流者を待つ。2時間後無事合流。彼女ら2人を米国へ送り出した後、ようやくサイパンへの撮影行という感じになって来た。現地での酒を買っておこうという事で、免税店でボンベイサファイア1リットル2,100円とつまみ500円ほど。このつまみはサイパン到着後飛行機の座席ポケットに置き忘れる事となり、一生の後悔となる。とりあえずメシ。焼きそばは注文を受けてからチンで430円。生ビール550円。成田土地買収時の地主の生き残りが経営している売店だった。チェックイン後ピアスの留め金を宝石店で買う。500円なり。スペインの道端で買ったこのピアスより高いかもしれない。
ボーディング。ノースウェストの747。フライトアテンダントの態度の悪さに理解が全く出来ない。一人のFAは食いもん口に放り入れながら通 路を歩いていた、と師匠が目撃。食事はミートボールと卵焼きが白飯に載るという不思議な組み合わせ。これを見てアメリカ人の友人がスペイン留学中に経験した朝食が脳裏から払拭出来ないでいたのが戻って来た。ホームステイで滞在していたあるサラマンカの家庭にて供されたラシオン(大皿)には山盛りの白米の上に目玉 焼き、ソーセージ、ポテトフライが盛られてケチャップで装飾されていたそうな。口が開いて閉じられない友人はその家庭の主に、これは一体なんなのだと巨大な皿を指差して尋ねたそうだ。そうすると主は、ひとつひとつ丁寧にこれは卵、これはソーセージ、エステ エ アロス、とスペイン語が分からないだろうと思って親切に説明してくれたそうだ。異文化理解は努力が必要だ。席から見える映画は終わりに近い所で切られた。ベルトコンベアに乗せられた大量 消費材の気分を味わいつつ再度南方へのランディングへ。 到着は午前1時過ぎ。入国審査は予想以上にスムース。デジタル撮影行の自分達はチェックインバッゲージもない。フォードのバンに乗って見る真夜中の道のりはアメリカ滞在のフラッシュバックもあって興奮する。特にバンのライトに浮かび上がる道路標識や教会などのアメリカ風のなんでもない建物、濡れた風景に記憶が一気に甦る。
道すがら海岸沿いに停まった車の周りにわさわさと人が動く。泊まるホテルの名は「Ocean View Hotel」でも海からは隔てられている。ロビーは鏡で覆われ部屋の入り口はピンクのドア、製氷機なんて洒落たものはない。
7/4
カーテンを閉めずに寝ると5時半くらいだったかな朝日と共に起きるが再び8時まで寝る。シャワー。師匠のPCが変な動きをしていることに気が付く。デジタル撮影行ではこんな所がボトルネックに成り得るので今までとは違う所(CCDの埃やらケーブルの接点とか、メモリーカードなんか)に気を使う。パワーブックをなだめていてもしょうがないので、「腹減った」と騒ぐ自分を先頭に無理やり下の食堂に向かう。久々のアメリカンスタイルの朝飯。ソーセージ、ハッシュドブラウン、卵2個オーバーイージー、オレンジ、トースト2枚、油ギトギト、ボトムレスコーヒー。
レンタカーを予約してから通りに出る。ホテルの前は目抜き通り。パレード。そう、今日はアメリカ合州国(合衆国じゃないよね本多さん)の「独立記念日」。その通 りを邁進するパレードを冷やかしに行く。パレードよりも、傍観者やら沿道の空き地に出ている安っぽい移動遊園地に目がいってしまう自分はやはりひねくれ者なのだろうか。その傍観者はチャモロ人、中国人、韓国人、アメリカ人は稀という構成。これはマンハッタンよりも混沌としていないか?でも皆ニコニコ、そこがニューヨークとは違う。埃と山車である18-wheelerの排ガスにやられて写 真を撮るも頭が朦朧としてくる。
ホテル近くまで戻りさらに先へ歩くと、ABCストアやらDFSやらと飛行機の座席ポケットに差さっているペラペラした雑誌に出てくる言葉と写 真が目の前に現れて来た。そんな虚構を消化する為に土産物屋のドアを開けてみる。でもやはりクーラーの効いた店内にて消化不良。それよりも強烈に目に焼き付く路地裏の光景。アメリカで見た覚えのある路上の風景。そこには日本の道端にある優しさや、いい加減さが含まれる。南国の光の強烈さがそれにオリジナリティを付け加えている。 ホテルに戻る、部屋に戻る。日記を書いているうちに部屋に電話。レンタカーが届いたとのこと。そうそういえば今ついさきほどまでビールが飲みたかったのを思い出す。熱射のなか歩いた埃まみれの体を洗い流すにはビール以外には思いつかないし、休暇中の昼間のビールはデフォルトでしょう。
でも運転手は君だと指をさされた私はドクターペッパーを片手にハンドルを握り、島探索の為にアクセルを踏む。
まずは崖がある島の北部を目指す。車の少ない広い通りを久々の右側通行でハンドルを駆るといつの間にかスイサイドクリフの下。慰霊塔や大きな岩盤をくり抜いた旧日本軍の司令部やら、当時の重火器等が点在する広場に出た。黒く焦げ付いたコンクリート壁が生々しい。道すがら目立った赤い花々がここにも咲く。むせる様な暑さのなかに映える緑と赤、それに青い空。花崗岩の重い石碑がその調和を切り崩す。
崖の上へと車で上る。上から見るも角度が急過ぎて崖の壁面は殆ど見えない。ここにも慰霊碑が多く立ち、個人が持ち込んだ20センチ程の碑もあちこちに据え付けられている。多くが破壊されているのが気になる。観光の若い日本人グループが柵から身を乗り出しきゃあきゃあと騒ぎながら足早に過ぎ去る。関心を持つだけ、足を運ぶだけ良いのかも。師匠は柵をまたぎ、その向こう側に行きこれは撮れないなと。それを見てフィリピン人だろうか観光客達が目を丸くしている。それはそうだろう落ちたら下は200メートルだってさ。
下る道の途中、道から30メートルくらい逸れた所に家が建っていたような跡がある。生活の跡、キッチンやらがまるまる野ざらしで屋根と壁が全くない状態で草に覆われつつあるのが見える。興味を持ち行ってみる。膝丈下くらいのブッシュだハブに気を付けろと、ぴょんぴょんと跳ねるように走る。最近火事で焼け落ちたようだ。キッチン。コンクリートでしっかり造られたものが天日に晒され、それほど古くないユーテンシルが錆びて散らばる。シンク横の錆やら焦げ跡のなかに卵がひとつ鎮座している。被災しなければ目玉 焼きになっていたものなのだろうか、はたまた海鳥が産み落としたものなのだろうか。手に取ってみる。熱い。裏側に見たこともない虫。あわてて手を離す。黒こげの流し台に落ち、パーン!、激しい破裂音とともに割れる。中からは黄身と白身がぐちゃぐちゃに混ざったものが溢れ出る。
同じ道を下るのもと思い途中にある未舗装道に入ってみる。方向を見ると舗装道とうまく合流できるはずだ。お前はいつも脇道に行きたがる、と師匠に指摘される。そういえば4月に久米島を2人で探索した時にもやはり地図に載っていない脇道をうろうろ。それを見るだけでもまた島に戻りたいと思わせる素晴らしいものをその時は発見した。サイパン島の脇道は赤く広く真っすぐだ。道端に咲き乱れる花が美しい。原色の中を進むと左側に鉄のゲートが見え、その奥には今までの色と正反対のパレットが現れた。一面 真っ白な臼状のエリアは草木も粉塵で白く薄化粧する石灰の採石場だった。途中まで下りる道から採掘場の底を見るとショベルカーがミニカーのように見える。畠山直哉だね、とか言いつつ三脚を立てて撮影。汗と埃まみれになり交通 警備をやっていた昔を思い出す。帰り際にかなり水分不足になっている。舗装道路に戻りゴルフ場の脇を通 り抜けるとなんでもない住宅街の一角にコーナーショップがあった。ボルヴィックとゲーターレードで渇きを満たす。
幹線に戻り再度北部を目指す。バンザイクリフ。さきほどの崖は山のように大地から切り立っているのに対して、こちらの崖は海に面 している。観光バスなんかで団体で見に来ている人達が多い。飛沫と風の強さ、それと背景に広がる深い青の太平洋がこの場所を「名所」とさせているのか。上から見ても80メートル程下の岩に当たる波くらいしか見えないので南側に移動する。地元の人が釣りをしている。地面 はゴミだらけ。光が逆なので明日またトライすることにする。
日本資本の巨大なホテルを横目で見ながらガラパン地区に戻る。時間に余裕があるので南部の空港の近くにも行ってみる。岬をチェックしてみたいのだが道が通 じていなかったり、米軍の施設として阻まれていたりして思うように行くことが出来ない。空港周辺の旧日本軍施設跡を見たりまた花の写 真を撮ってからホテルに戻る。途中夕陽が奇麗なのでビーチも歩いてみる。男ふたりで。沈む夕陽に輝くはー、米軍の巨大な輸送船が3隻ほど。あんな沖で何をやっているのだろうと、現地の人に聞いてもよく分からないという答えのみが返ってくる。ビーチ沖合には上陸作戦の時に放置された米軍の戦車が砲台のみを海上に現して60年以上も鎮座している。光の加減からこれも明朝攻めることにする。
ホテル。本日の成果をEOS5から抜こうとするが上手く行かない。ありとあらゆる手を使うが、やはりパワーブックがおかしいらしい。腹も減っているし手立てがないのでメシを求めて路上へ。DFS近くやら観光レストラン街からわさわさとhookerが寄って来て「オニイサンアソンデイカナイ?」と。最初は笑いながらシッシッとやっていたのだが、余りにもしつこいので怒りが湧いて来る。日本語喋れないふりしてもだめ。こんな所で何やってんだよ日本人、ヘンなカネ落として行くなよ。群を抜け出た二人が入ったのはE'sY Kitchenという名のレストラン。無国籍料理とはなんともつまりサイパン料理。日本、チャモロ、中華もろもろ。おまけに客は日本人のみでウェイターは現地人のようだけど日本人にも見える。どちらかと判断するのも面 倒くさいので日本語を喋らないことにする。でもメニューは日本語。疲れて来た二人は結局フォスターの生ビールを1杯ずつ飲んで店を後にする。次に向かうは怪しげなオープンテラスのチャモロ料理店。でも入ったら意外と落ち着けるし、クーラーが入ってなくとも良い風が通 り抜けるので気持ち良くミラーライトの瓶を並べることが出来た。魚のホイル蒸しにセビーチェの様なものと、タコの唐揚げなど。ウェイトレスのサービスも気が利くし、先程の通 りでのイライラから解放される。と、解放されたのは気持ちだけではなく空までも解放された。物凄いスコール。昼間にもあったしすぐ止むだろうと見ていると全く雨量 は減らず増えるのはビールの量ばかり。取り敢えずカメラだけビニールにくるんで走ろうか、という所で店の主人が送ってくれるという。日本人の高木さん。小学生の娘さんを助手席に乗せシボレーアストロでホテルまで10分ほど豪雨の中をゆっくり走る。戻って見つけたホテルのロビーの壁にはWiFiスポットの知らせがある。早速マックにドライバーをインストールして画像救出試みるがやはりダメ。サファイアロックにて気を取り戻す。師匠は夜中に明日の準備運動だとプールに入る。おやすみ。
7/5
日の出で何度か起きて8時前には昨日チェックした水没戦車スポットへ。朝なのでビーチには誰もいない。岸から200メートルはあるだろうか、自分は防水ハウジングに入った8mmビデオ、師匠はやはりハウジング付きのコンパクトデジカメ。二人共水中眼鏡で完璧装備。見た目でやばいのは自分のみトランクスというところか。その完璧な二人は5メートル程進んだ所で風に吹かれた。「本当にあそこまでこの装備で行って大丈夫か?」「本当に遠浅か?」「海流は?」
ままよと一度陸に揚げた足を再び沖合に向ける。200メートルの崖は怖くないが同距離の浅い海に恐れをなす。知ると言う事は大事だ。腰くらいの水深。底はびっしりとナマコで覆い尽くされている。絶対触ってやるものかと泳いでいたが首まわりのカメラに観念して途中から歩き始める。師匠は平気な顔をしてずっとナマコ絨毯の上を歩いていた。
沈んでいた戦車に辿り着いた頃にはつま先立ちでようやく頭が出るくらいの深度になっていた。モノは錆と藻に覆われていたがほぼ原型をとどめていた。シャーマン戦車。ぐるりと一周撮影。上にも乗って見る。62年前の空はどんな色をしていたのかこの辺りはどんな匂いがしていたのかと想像してみる。帰りは慣れもあったので泳いでみる。泳ぐのも久しぶりなので岸に上がる頃には、泳いだ後の心地よい疲労が全身を薄く覆う。
砂浜の上に敷き詰められた茶色い松葉を踏みしめて車に戻る。師匠はなぜか興奮気味。起きてから水しか飲んでいないので、温かいコーヒーと朝食が無性に欲しくなる。20分位 うろうろしてからガラパンより南にコーヒーショップを発見。看板はコーヒーショップなのに、出て来たものはアメリカのガソリンスタンド並の薄さ。朝食もフルーツがメインの7ドルくらいの値段だったので、注文せずにコーヒーのみを片手に朝食難民となる。ビーチから内陸に一本入った幹線沿いに見えたホテルが何となく気になったので車をUターンさせて見てみる。観光客なんかは全く来ておらず、チャモロ人が朝飯を食いに来ているという感じ。清潔な内装と適度なサービスで期待大。もちろん日本語は皆無。コーンドビーフとハッシュブラウン、卵2個オーバーイージー、トーストに、ゆるゆるコーヒーはボトムレス。なぜかいつも「イージーオーバー」と言ってしまう「簡単に終わる」か?これは一生直らなそう。師匠はハムやらが入ったスクランブルエッグにピラフという混ぜ混ぜ系。どちらもボリュームがすごかった。コーンドビーフが入ったハッシュブラウンに卵の黄身のとろっとした部分を混ぜてトーストにのせて口に入れ薄いコーヒーで流し込む。至福。内装やら食べ物はアメリカなのにテーブルに当然のようにキッコーマンが置いてあるのがサイパンの証だ。
帰り道に見つけたPCショップでSDカードリーダーを発見。25ドルは安くないけど緊急用という事で購入。早速ホテルに戻りダウンロード。上手く行った。 昼近くにバンザイクリフ。風が強い。いつも思うが崖の縁ぎりぎりまで立てるのはこの海からの風のおかげ。これがたまに方向が変わって陸から吹くなんて事になったら、端から10センチなんて場所に三脚なんか立てられない。f8-2/3, f11-1/3, またf8に戻りましたっ。ライトメーターを片手に雲の様子なんかを見ながら撮影を続ける。その隙間に自分の写 真も撮る。コンパクトカメラでよかった。
しかしこのクリフ、足場がかなりやばい。溶岩が固まって出来たものなのだが、その上を蔦が覆っている。この蔦を取り除いて足場を確保しないと引っかかってこける。地面 は触るだけでも痛い溶岩なので、いきおい転びもしたら擦り傷だけでは済まなそうだ。しかも下手な方向にこけたら80メートル下にさようなら。気は抜けない。そしてまた60年前を思うと心も痛む。当時こんなトレッキングブーツなんか履いている人なぞ居なかったろうに追いつめられて溶岩石の上を歩いて来ただけで難儀だっただろう。おまけにここから飛び降りなければならない状況なんて想像を絶する。当時の在島日本人はほぼ壊滅状態だったため詳しい人数は不明らしいが千とも万ともいわれる人達がこの青い海を赤く染めたそうだ。
師匠の思っていた通りの撮影が出来たらしいので充足感と共に再びハンドルを握る。しかし暑い。ボルヴィックのボトルが手放せない。まだ行った事のないエリアを探索する。島の北東にあるダイビングスポットの「グロット」。駐車場に着くなり脛から血を出したチャモロ人が唸りながら水を患部に当てているのが目に入る。車を止めて看板の矢印に沿ってかなり急な階段を下りると、なんというか、へその穴に滑り込んだようだ。50メートル四方の海水がある池の様なエリアが、やはり50メートルくらいの高さの岩に囲まれている。真ん中には10メートル四方程の島。その「池」から外洋に自然のトンネルをくぐって出られるらしく、ダイバー達がその島で準備をしている。まわりは薄暗いのだが、その島近辺が光に照らされている。「池」の海水は外洋の波の力をもらってウネリをあげている。島まで行くのがひと仕事だ。よくダイバーはボンベなんかを背負ってあんな所まで行くぞよ、とカメラ機材を担いだ二人組はぼやく。
近辺の「絶景」を何カ所か見た後ふたたび地図に無い道を疾走。突き当たりにアパラチア辺りにありそうなしなびた農場がある。違いといえば「こんにちはー」と入って行ってもライフルを突きつけられない所かな。そのT字路から再度わたくしが選んだのは険しそう、というか轍が無い方の道。でも途中でカローラ君が足の短さにより悲鳴をあげ始める。悪路を選ぶ者ともいえ、切り上げるポイントを知らないとただの遭難者と成り得る。なんとか車をUターンさせて轍に戻る。こちらの道は楽で60キロくらいのスピードで疾走してアスファルトに戻る。
南東部へ。ラウラウビーチへ向かう、幹線から逸れる。蛇曲したじゃり道の上に真っ赤な花を纏ったフレームツリーが覆いかぶさる。車内に聞こえるのは砂利道を喰うタイヤの音のみ。車を止める。砂浜を歩く。砂浜は10メートルもない幅なので誰も寝っころがってはいない。地元の若者がシュノーケルギアを纏い浮いたり沈んだりしている。
白い砂、緑のつた、青い海、珊瑚礁、茶色い岩、静寂、波の音、写真にする必要のない風景。
心地よい海沿いのワインディングロードを抜けてサイパン島最高峰、といっても500m位 なのだが、を目指す。道は急な上り坂。舗装もままならずにスコールでえぐられた路面 にカローラがまた悲鳴をあげる。それでも高級住宅が立ち並び、嘘のような屋敷も点在する。
雲上からの眺めから下界に戻り、師匠が気になるスポットを「やっぱり気になっているから撮っておかなければ」との事でハンドルをくるくる回してUターン。その気になるというのが、感覚として現れるのが重要なんだな。
30分くらい撮影後ホテルに戻り、Abby'sというシーフードレストラン。ここはいくらか地元の人が居た。でも安くはない。窓に貼られたマーメイド越しのスコールを眺めつつミラーと刺身を流し込む。安くはなかった。
通り沿いに据え付けられたバーで飲む。Jimmy's。昔を思い出して、南国気分を醸し出したくて、「Cap 'n Seven」 - キャプテンモーガンラムとセヴンナップ。これだけを毎日飲んでいた何ヶ月があった。師匠と写 真の話で白熱すると向かいの常連らしきフィリピーノかチャモロの男が寄って来て肩を叩く。振り返ると、「煙草吸いたいんだけどライターないか?」と。カウンター越しに暫く見てれば分かるように自分は全く煙草を吸っておらず、それを分かっていて聞いて来た。つまり、自分と師匠が議論に白熱しているあまり、取っ組み合いの喧嘩になるんでなかろうかと(バーテンに言われて来た感じだったが)水を差しに来た様なのだ。バーテンのフィリピーナともしばらく3人で話をしたのだけど、この人達は、というかこの島の人達は本当にニコニコと、争いは全く別 次元の物事だというような時間を持っている。自分と師匠もその場では、喧嘩ごしという訳ではないのだが「議論」をしていた。これはアメリカに居る頃では普通 だったし、それが出来ないと認められない様な文化だったのだ。知る人ぞ知る、自分はこんな文化の違いでひどい目、というか話としては「面 白い目」にあった事がある。
バーテンにまだ飲むの?と言う顔をされつつ最後のグラスを頼み、ふたりでふらふらとかえる。
7/6
8時45分にホテルに迎えに来てもらったタクシーはちょっと年季の入ったNISSANのミニバン。パキスタニのドライバー、Jah(ジャー)はいきなり「ドコマデ〜?」ときた。昨日の酒に脱水症状を覚えつつチャーリードックという名の船着き場で乾いた空気と熱射の中、カシノ帰りの中国人の団体が蟻の列の様に左から右へと色とりどりのスーツケースと土産袋を抱えて移動する様を眺めつつ船の係留柱に腰を据える。船が来る。高速艇のようだ立派な船。乗船後あまりの喉の渇きにミネラルウォーターとコーラをそれぞれ2ドルもするにもかかわらず購入。のどの渇きが癒されると共に、雨。
到着後レンタカー、ちっこいトヨタ。間欠のオプションがないワイパーを回しながら地図を睨む。とりあえず、またかよ、食料探し。ガイドブックで調べておいたフレミングストアへ。そこまでの道のりは標識などがアメリカでの記憶と合致するのだが、ハンドル越しに見える風景は全くの新しいもの。南国の風景。フレミングストアは雨の丘陵地を上った所にある「食堂」。中に入ってレジ前に並んでいたのは日本人の普通 のおばあさん、といっても若めのおばあさん。お土産なんかを買おうとするが1万円しかないと日本語でチャモロの店員に言う。1ドルは120円だから3,000円は何ドルだっけ。お釣りなんかのやり取りを手伝ってあげる。車付き現地人のガイドを付けた白髪の2人組なのだけど、こんな僻地になぜだろうと最初は解せなかった。結局お釣りは出ずに、お土産の人形は買わずにそそくさと立ち去って行った。思うと彼女達は亡き家族の為、慰霊に来たのだろうと結論に勝手にさせてもらった。彼女達の思いと時間を思うと、土産の取引の横暴さを見るも神妙になる他なかった。
だが空腹は神妙で居続けてはくれない。スパム入り焼きビーフンと、サンドイッチ(卵、チーズ、スパム)、エンパナーダ、りんご味の緑茶(!)、美味い。フィリピーナの文化がここにあるのか、メキシコもしくはアメリカ南部文化に近い自分達二人は思わぬ 場所でのメキシコ料理との再会に興奮し車中に戻る。路上、他に車はいない。曲がりなきブロードウェイを北にまい進。この島はマンハッタン島に形が似ているとの事でアメリカ軍の占領後、要所にマンハッタン内にある地名が付けられている。
途中道沿いに朽ち果てるコンクリの建物を見る。道路前の青草が茂る広大なスペースに車を止める。小雨。湿気。旧日本軍の通 信施設跡、と歴史建造物指定のプレートに書かれている。無数の銃痕が残る壁が雨水でぬ らぬらと光る。中に入るも部屋の表記は全て英語。雨の雫が荒れた建物の中にその音のみを立てて落ちる。
その後途中にあるフレームツリーを撮る。その向かいには砲創でえぐられたコンクリ製の鳥居が立つ。奥に進むと本社がありそうだが雨が強くなってきたのでそのまま先へと進む。 Blow Hole - 間欠泉の様なもの。塩水をしこたま浴びる。茶がかったグレイの空の下、海の向こうに初めてサイパン島を確認する。辺りはバーブワイアで囲まれた土地に「地雷、危険入るな」と。ワイアが切れた所から入って行ってまた師匠を慌てさせる。でもサインと一緒に記念写 真。そんなに簡単に死ねないよ。天候、時期のせいか、はたまたこんな歴史遺痕、イコンを見に来る物好きはいないのか。ともかくこれらのスポットを廻る間は誰一人とも会わなかった。
海岸近くのガタガタ砂利道からちょっと上る。舗装道。やけに広い。そう、ここがこの島、テニアン島のメイン、ハゴイ飛行場の滑走路に轍を踏んでいた。2.5キロメートルあるという滑走路が3本(6本とも言われる)もある。これらは米軍のテニアン占拠後数ヶ月でアメリカ海軍設営部隊(通 称モSeaBeeモ)が15,000人と重機を用いてサンゴをベースに造ったそうだ。あまりの機動力と60年を経てもなお、平坦なランウェイに感嘆する。その上を1000ccもないエンジンを持つトヨタは滑走する。時速100キロで走っても安定している路面 。こんな感じで飛行機が飛び立って行ったのかと思うと複雑な気分になりつつアクセルを踏み続ける。当時世界で最も忙しい空港だったハゴイからは、北日本から琉球、日本各地へと火薬を積んで飛び立って行った。
広い敷地内は滑走路と生い茂る草、そして旧日本軍の遺跡が残される。米軍の施設跡は全く見当たらない。それらのスポットにはプレートが貼付けられ、歴史(どう見たらどれが正しいのかは別 として)の伝承者としての役割を果たしている。滑走路横の駐機場だろうか、小学校のグラウンドぐらいのひらけたスペースの端々に腰くらいまでの高さのペデストルに金属製のプレートが埋め込まれている。全部で10柱くらいあるのだろうか。それぞれのプレートには必ずB-29の絵が描かれ、誰それがこのスクアドロンで従軍中に貢献したと記してある。だれもいないこの広場の記念碑をひとつひとつ見て回っているうちに歴史の不思議さという事を感じていた。歴史に「if」はない、という言葉を思い出す。アメリカ本土、オクラホマなんかだろうかのとてつもない田舎にいる従軍経験者達がここを訪れてセレモニーを行っていたと考えると、この日照りと経験した事のない湿気が更なる現実に思えてくる。その「もしも」がひっくり返っていたら、青森辺りの従軍経験者がここに来ていて、プレートが英語ではなく日本語だったのだろうかと師匠に問いかけたら、「アホな」と一蹴される。
別に右に寄っているという訳でもないのだけどさ。 更に奥に進む。頑丈に造られた様な旧日本軍の施設が赤い轍の横に佇む。50センチ四方もあろうかというコンクリの柱も砲撃か、はたまた風化してしまったのか2階部分が宙に保たれているのが不思議だ。宙というのは何かと言うと、壁が全て残らず消えており、柱と床、天井のみが残っているからだ。その柱の根元にも線香やらワンカップの酒、食物などの慰霊の印が残る。今残るはトヨタの1リッター分のアイドリング音と、まばらな雨音、蚊が飛び交う音、シャッター音、そして熱気と湿気。
車に戻る。奥に進む。先程のグラウンド並の広場より少し小さめのスペースに出る。そこにはルーブルにてイオミンペイが造ったようなガラスのピラミッドが二つ離れて見える。 それらは広島、長崎への原子爆弾を積み込んだ深穴、ピットだった。それぞれのリトルボーイ、ファットマンは大きすぎるので自動車整備のピットのような穴へと一度地面 下に下げてからB-29に積んだ。正面には、お決まりのプレート並びにプラスティックの花輪。ご丁寧に赤青白の三色だ。ガラス張りの向こうの穴には当時の写 真がパネルにて展示されている。このひとつの溝、一つの鉄の塊、その中にある数学の叡智が詰め込まれた化学薬品が数十万人の命を奪ったと思うと、この静けさの中にいる自分の存在がはるかなる無力なモノと感じる。
その後こっちをうろうろ、あっちをうろうろとあてもなくトヨタは走る。そんな中、やっぱり入ってしまうのは未踏路。これは凄い。子供の頃にガソリンスタンドで親の車の洗車中に車中にいた経験って大抵の人にはあると思う。それがまさに再現されている。床はゴリゴリゴリ、脇は熱帯植物でザラザラザラ。こいつは四駆で来ないとまずいのではないかい、と二人思うもとりあえず進む。海岸。ビーチまで出たかったのだけど途中からの道はとてもトヨタにはこなせないようだったのと、ビーチまで車を置いて歩いて行ける距離ではなかったので断念。うんせっ、とかけ声を掛けながらUターンをして戻る。アスファルトに戻りほっとした自分に多少の悔しさを覚えながらハンドルを握り続ける。
神社。神社に戻る。今度は車を止めて奥の方まで歩いてみる。相変わらずの鬱蒼とした木々と湿気。歩く片隅に当時の面 影、壊れた彫像や石段、を見つけては時間を感じる。ちなみにここに在った会社は「南洋興発」というもので半官半民、サトウキビの生産を主として最盛期には5万人もの従業員がいた。これらの栄華を誇った財閥が造った神社なのだからさぞかし華やかなものだったのだろうと思うが、ジャングルの中に残るのは僅かな痕跡ばかり。
ブロードウェイを下り、港を抜け南部へ。この島にもあるスーサイドクリフへと向かう。山はなく、広々とした絶景もなく、ただ、ただ大地の終わりがそこにあった。そしてそのポイント、突端へと続くコンクリの歩道を遮るように白いコンクリの壁が造られている。余りにもシンプルでその場で見た時は「へぇ」くらいの感想(崖には慣れてしまっていたので)だったのだが、上がって来た写 真を見返してみると、それらの人々の自害の波を止めようとする「つくり」の様な気がしてならない。事実と違う米軍の捕虜への扱いを教え込まれ、捕われる身の成り行きの恐怖はあれど、死への恐怖はない。そんな人々が100メートル近い高さから身を投げた。180センチある自分の背丈より幾分低いコンクリートの壁から身を乗り出して青い海と白い飛沫を眺め続けた。
さて、撮影。何点かスポットがあったので、機材を出してセットアップをするが、雨雲が明らかにはっきりと海上を滑って来る。こちらに向かって。風も明らかに崖上に立っている二人と機材に向かって吹いており、じわじわと寄って来る雲との距離が縮まるにつれ雨脚が強くなる。三脚を立てて風上にレンズを向ける。体も風に対抗するように自然と斜度がつく。目に入る雨粒をやはり濡れている腕で拭う。天気と、地球と、取っ組み合いの勝負をしているようだ。レンズに当たる雨滴が気になるが、ファインダーを覗く師匠は気にならないらしい。駆け足でカットを数える。もうダメだという瞬間に三脚ごと抱えて車に駈け戻る。3本の足を縮める暇もなく後部座席に放り込みカメラが水でやられていないかと確認する。湿気がいまだにすごい。エアコンでそれを取り払う。
10分も経っただろうか、対戦相手である雲は島の反対側へと挑戦者を探しに行った。再度違うスポットで撮影を行う。しかしなんて贅沢な撮影行為だろう。自然と歴史を感じ、それを題材にし、撮影は誰にも邪魔されずに進む。響き渡るのは波と風の音と、シャッター音のみ。ただ、かなりの危険性が伴うのは致し方ない。
撮影を終え虚脱感をまとい、てれてれと近場のビーチなんかもチェックしに行く。天候も怪しいので、トヨタにガソリン、自分達にはドクターペッパーを補給して午後6時半の最終フライトにかなり余裕を持たせて空港に向かう。ここにも出ていた911の影響、観光客の減少、サイパンに戻る最終船便が午後1時というので飛行機で帰る事にしておいたのだ。フライト時間は10分強。37ドル。
切符を買う。パスポートなんかは見られる事はなく、あるのは自分の体重の自己申告と、持ち物全ての重量 チェック。これで機内での荷を積む場所、人の乗る場所を決めてフライトを実行するのだ。そう、当然の事ながらそれは6人乗りのセスナ機。三脚一本まで重量 を計られる。 フライトまであと20分という言葉を信じて待合室でESPNから流れるカレッジバスケットボールを眺める。探索したり昼寝したりしてとうの20分を倍以上過ぎた頃に、「xxx川」!と呼び声が掛かる。xxx川だうちらだとほいと手を挙げて向かう。小さいドアから乗ったセスナはふかふかのシートでとても心地よい。最後に乗ったセスナ、あれはナスカの地上絵を見るのに乗ったものだった、に比べると雲泥の差だ。エンジンもパワフルで降り出して来た雨と強くなり始めた風をものともせずにランウェイを突き進む。と、雨のせいか、飛行機が来た道を急ぎ足で戻る。グラウンドでチケットを管理していた少しやり手っぽいチャモロ人の奇麗なお姉さんが、目を引きつらせて待っていた。「あんたたち、xxxカワじゃないの?!」
20分と言われてでも長時間待たされた自分達は「xxxカワ」と言われた時に相手のの独特なアクセントと、早口とで疲れた脳に「xxガワ」だ、「はいはいうちらです」と手を挙げてお姉さんについて行ってしまったのだ。迷惑は飛行機会社と「xxxカワ」さん二人組。でもなんでその時何も言わない、飛行機会社チェックしない。降り自分達は取り敢えずあちこち文句を垂れる。
ようやく乗れた飛行機。先程のものと違ってポンコツセスナ、サンバイザーはなんと新聞紙が巻き付けてある。タキシングの間中ドアが開きっぱなしだったのでパイロットの真後ろに座っていた自分はそのチャモロ人の大きな肩を叩いて
「ドア開きっぱなしだぜ」
「大丈夫」
というジェスチャーをもらって取り敢えず引っ込む。そのドアの脇には子鹿のような引き締まった体の10代半ばくらいのチャモロの女の子が平然と座る。離陸直前まで滑走路を走りまくり、くくっと方向転換をするとスロットルを開けきって離陸体勢。するとパイロットがその女の子にドアを閉めるように指図した。そう、空調もなく、余りの暑さなのでタキシングの間はドアを開けていないと暑くて苦しいのだ。ふらふらしながら上空へ。昨晩の酔っぱらいの自分達のようだ。師匠はビデオを回し、自分はシャッターを押し続ける。それら視覚の記録への音はガソリンシリンダーの爆発音にかき消される。ジェット機に慣れた自分はそんなふらふら飛ぶセスナが余りにも遅くて頼りなくて、こんな装置が地球上のある地点から、また次の地点へと移動するのが不思議でたまらない。サイパン空港着。成田からジャンボ機で着いた滑走路に同じようにセスナでつくという行為になぜか含み笑いを被せてしまう。
空港からタクシー。行きと同じJah。車がとてつもなくピカピカになっている。聞くと自分達をチャーリードックに送った後にNISSANのタイヤがパンクしたそうだ。そしてテニアンからの自分達の電話を受け取った彼は、友人に急遽助けを頼んで私製タクシーと相まった訳なのだ。ホテルまで25分程の間、いろいろと話す。ホテルに着いて、朝約束していた空港からガラパンまでの値段、25ドルで良かったよね、と言うと、バツが悪そうな顔をして仕方がないな、というジェスチャーをした。そこで前から決めていた5ドルのチップを含めて30ドルを渡すととたんに明るい顔になる。その車を貸してくれた友達にも何か奢らなきゃだろ?パキスタン出身の素直な青年だった。充実した一日だった。明日の朝、5時にはボーディングだ。
最後の夕飯はまたKUCINA、チャモロ料理に向かう。美味いし、安いし落ち着ける。でも、今回はオーナーの高木さんが話し相手に飢えていたようで、ノンストップ。メシもなんとか味わえたけど、結構疲れた。後半寝ていたし、その前は猫の写 真撮ったりしていたし。
10時くらいには寝る。2時にモーニングコール。パッキング、1時間もしないうちに完了。朝方、日本人を詰め込んだミニバンはフィリピン人の運転で空港に向かう。
空港ではお土産なんか買う訳もなくうろうろ。朝方なので、コーヒーかと思いきや、発見してしまったMickey'sふたりで懐かしいーストーリーを投げつけあいながら、一本5ドルという法外な値段ながらも購入し、成田までのフライトに備える。