「Road Map of Tibet」

 

2000年4月からの2ヶ月間をかけて、サンフランシスコからロスアンジェルスまでの800kmを歩く。 歩列の中にはインドに亡命中のチベット仏僧が何名か。 肩にはカメラ3台。

2003年11月、インド北部のダラムサラという町にその尼僧を追って1ヶ月間滞在。

更に詳しい経緯は下記の文をどうぞ。

 

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何に惹き付けられたのだろうか。 ここダラムサラまで、会社を辞めるつもりで1ヶ月の予定で来てしまった。 そもそもの自分と「チベット」との関わりは、アメリカ留学時にさかのぼる。 自分の通 っていた大学に「政治犯」として収監された経験を持つチベット尼僧が3人、証言ツアーの一環として立ち寄ったのだ。 そのイベントを撮影に訪れていた当時の自分は、ジャーナリズムに片足を突っ込んでいたにもかかわらず、尼僧たちの話を聞くまでチベットの歴史はおろか現況に対して何も関知していなかったのである。 そして彼女らの話を聞いた時点でさえも、チベット問題とは世界各地で起こっている紛争のなかの一つ、というくらいの知識として頭の片隅に置かれるのみだった。

転機が訪れたのはそれから3年後の春である。 現地での就業後に再び学生になり、アメリカならではの長い夏期休暇をいかに過ごそうかと思案していた頃、ある友人から誘いを受けた。 「自分達のチベットサポート団体が、サンフランシスコからロスまでチベット僧を招いてピースマーチをやる。 2ヶ月間、徒歩の行程だ。 一緒に歩いて写 真で記録をしないか」と。 金欠有閑学生だった自分の返事は言うまでもなかった。 フィルム代も、往復の飛行機代も出してくれるという。 初めての大掛かりなプロジェクトに心踊らせながら取り組んだ。 その、踊る心が、痛み、そして「何かをしなければ」という衝動へと変わるまでに時間はかからなかった。

マーチは1日約20km。 朝起きて、朝食を摂り、昨日まで歩いたポイントまで車で行き、祈り、チベット国歌斉唱の後、歩く。 昼食。 再び歩く。 夕方に目的地まで歩き終えると、無償で泊まらせてもらっている教会や、学校などに車で移動、という単純な日々のくり返しだった。 その寄宿した先々にて機会あるごとに、一緒に歩いていた元「政治囚」達(この語のチベットに於ける意味についての説明は皆様には必要無いと思われるので割愛させて頂く)から、集まった地元の人々にその経験を聞いてもらった。

その中の一人の尼僧の話には、聞いている人皆が涙を流さずにはいられない内容であった。 彼女は、その場にいた他の僧たちに比べると収監された年数こそ短いものの、話の内容の凄惨さに関しては耳を塞ぎたくなる様なものだった。 そして、その内容をさらに凄ませているものが彼女の話し方だった。 話の内容とは裏腹に、まったく感情というものを表さずにトツトツと話す。 それを通 訳が英語に直している間は、半ばうつむいた感じで訳が終わるのを待つ。 顔は無表情のままだ。 小柄な彼女がいっそう小さく見えて、通 訳の言葉を聴いた聴衆が更なる同情の目を投げかける。 その様な感じで、800kmの道程中何度もあったその話会は進んで行った。

海外滞在が長いと、異なる文化の中での表現方法の違いというものに気づき、そして、本来のものの方を失い始める。 曖昧な表現方法を主とする日本文化に対して、感情をストレートに出し、白黒をはっきりさせ、ジェスチャーを交えて表情豊かに話をするのがアメリカ文化である。 それに慣れてしまった自分には、彼女の話し方は衝撃的にさえ見えた。 または、彼女が受けた拷問が極限を越えるものであったために、感情というものを奪い取られてしまってその様な話し方になってしまったのか、とも思えた。 その無表情さと話の内容の対比は、静かなる平和な大地で起こった悲劇を物語っていた。

 

それから3年。 長かった。 一緒に歩いたチベット人のうち何人かは、すでに亡くなってしまった。 だが、ダラムサラで再会したその尼僧、アニ・ケルサンは変わらず元気そうだった。 拷問の後遺症にひどく悩まされた時期もあったようだが、長い雨期を抜けた今に、その、いきいきとした姿を見てほっとした。

初めてのインド。 それも、アジア諸国を訪れるのも初めてという中でダラムサラへとまっすぐ来てしまった。 アメリカ、そして日本にてチベット問題をサポートする人達の繋がりが、人、そのまた人を呼んで、世話になり、日本で電車を乗り継ぐような感覚で着いてしまった。 久々の海外への旅にて緊張と期待が高まっていた自分のココロは、不思議なもので、故郷にでも帰った時のような安堵感ですぐに満たされてしまった。 しかし、今風の言葉で言えば「癒し」の地、ダラムサラでの亡命チベット人達の生活は、楽ではない。

経済的自由を求めて、アメリカなどの諸外国へと居留を求めるチベット人達は後を断たない。 そこで暮らしているチベット人達は皆、様々なサポートを受けてそれなりの「良い」暮らしをしている。 マテリアリズムが蔓延しているその地での幸せの基準については、自分は疑問を感じるが、チベット・インドでの生活に比べて楽であり、豊かである事は確かだ。 しかし、そこは「桃源郷」でない、ということも確かである。 そして、モノに関して何不自由ない生活をしている、その何人かに聞いてみた事がある。 もし、チベットが自由になったら、どうする、と。 すると、間、髪を入れずに「帰る」との答えが返ってきたのには、やや驚いた。 たぶん日本人の殆どが、同じような状況にもし、置かれていたとすると、すこし考え込んでしまうだろうと思う。 それが自分であってもそうだろう。 これだけ豊かな生活を送れる異地より、生活の厳しい不便な生地を、自分の祖国という理由だけで選べるだろうか。 そして、日本という自分の国に、それだけの魅力と繋がりというものはあるのだろうか。 そのやりとりは深く胸に刻まれ、いまだに反芻されている。

長くも短くもあった充実した滞在を終え、いたずらにモノの溢れる東京の生活へと戻ってきてしまった。 現地で撮影したフィルムは3ヶ月を経た今、浴室にて1本ずつ現像されつつある。 これらのイメージを3年前のものと併せて世の中のより多くの人々に見てもらう、というのが当面 の目標となっている。

 

なぜチベットなのかと聞かれたら、ただ、たまたま知り合った困っている人に、当たり前のことをしているだけ、と答える。 小さいころに親に教わったであろう、良い事と悪い事との分別 。 チベットで起きた事、そして今起こりつつある事は、公に、そして、あからさまに「悪い」のである。

ヒマラヤを越えてくる子供達の里親になるのも一つの手だし、リチャード・ギアが彼の銀行口座の中身をちょこっと動かすと、一晩でダラムサラのデコボコ道が鋪装されるのもまた、チベットに対するサポートである。 写 真を撮って物事を知らしめ、何かを変えようという力を引き出す、という写真コミュニケーションの力に魅惑され、写 真を始めた自分にできる事は限られているかもしれない。 だが、現像して出てくるフィルムに焼き付けられた流浪の人々を見る度に、「何かをしなければ」という気持ちを新たにしつつ、この活動を続けていきたいと思う。

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