ニオイの記憶
最近、鼻がつまっているようだ。 ニオイというものをなかなか匂いとることが出来なくなっているような気がする。 部屋と仕事場の往復で、外を歩かなくなってしまったからであろうか。 たまに自転車には乗るのだが、ニオウものといったら主に車の排気ガスやら、通 行人の煙草のケムリなどと、あまり健康的なものではない。
アメリカにて生活して気付いた事のひとつに、その文化が(といっても接したのは中流階級白人が殆どだが)、ニオイに敏感なことである。 特に料理の時など - 換気扇の付いていないキッチンが多いせいなのかもしれないが - ニオイのするものはなかなか作りたがらない。
「エレベーターの扉が開くたびにぷーんと鼻を突く。 大体、アメリカ人の家庭を訪れると無臭だ。 食べ物の匂いが部屋や口の中に残るのを極度に嫌う」 (「ハーレムの熱い日々」 - 吉田ルイ子)
街の中はもちろん、屋外にいると、色々なニオイを子供の頃に感じ取った記憶が蘇ってくる。 雨上がりのニオイ、海に近付いた時の潮のニオイ、干した布団の中にもぐり込んだ時の陽のニオイ。 特に、アメリカにはない「梅雨」の時期に日本にいると大変だ。 湿気がそうさせるのではあろうが、様々なニオイを匂ってしまって、様々な記憶が蘇ってきてしまって困ってしまう事がある。 それは、押し入れの後片付けをしていると、昔の本やら、アルバム等が出てきて片付けが全然進まなくなってしまう時のようである。
写真家である自分が取り組んでいるテーマのひとつに、「記憶」というもの がある。 コンタクトシートを何度もながめて、あのときはああだった、こうだった、などと思いを巡らせながら作品群を組み立ててゆく。 その時に、「ニオイ」や「音」などもそれらの情景と一緒に浮かんでは来るのだが、それらを鑑賞者に伝えようとするのは、とても難しい。 そして、撮影時にもニオイがしないとなかなか撮る気になれない、というか、ニオイが匂わないと、情景もがガスの抜けたビールのように映ってしまうのだ。
最近、とんと鼻がつまってしまったようだ。