「撃つ」ことと「撮る」ということ
よく、写真を撮るという行為は、撃つ、という言葉に差し換えられる。 英語でいう「shoot」である。 たしかに写 真を撮るという行為は、攻撃的であることはあっても受動的に成り得ることはない。 報道、もしくはスポーツフォトグラファ−がかついでいる、超望遠レンズがその良い例だ。 あれは白だから良いものの、オリーブグリーンなんかに塗られていたらロケット砲と間違われてもおかしくはない。
フィルムを巻き上げる - ピントを合わせる - シャッターを切る
銃弾を装填する - 照準を合わせる - 引き金を引く「終結した」米のイラク侵攻中に、ジャーナリスト何人かが、報道の名のもとにその命を犠牲にした。 そのうちの2件は、- 両方ともアメリカ軍の砲撃によって命を落としたロイター通信社の記者だが - カメラ、もしくはテレビカメラを操作中に戦車から撃たれたケースである。 米軍はいずれの場合も、遠くからカメラを自分の方に向けられているのを見て、「攻撃される」と思い、先に攻撃したという。 「銃」を持つ両者の非常時でのバランスが崩れてしまった時に起きた悲劇である。
自分は、「ストリートフォトグラフィー」という分野の写真を、得意なものとしてやっていた時期があった。 道端での撮影の際には、見知らぬ 人をフィルムに収めることになる。 徐々に、それらの写真を発表しても構図や雰囲気などのほかに何を伝えたいのか分からなくなってしまい、止めてしまった。 それは、山の中(路上)に入って、鉄砲(カメラ)を使い、狩り(撮影)をし、獲物(上手く撮れた写 真)を、皆にひけらかす(展示する)という行為となんら変わりがない様に思えてきてしまったのだ。
そのエキシビショニズム的行為を良しとして活動しているぶんにはよい。 しかし、自分が求めている写 真を通しての発表方法とは、被写体と対話し、それからその姿をフィルムに収め、自分というフィルターを通 し、閲覧者へと言葉を届けることだと思っている。 そのためにも、被写体にはシャッター音が銃声に聞こえないようにと、気を付けて撮影にいそしんでいる今日この頃である。